私は頭でクチャクチャ考える癖があるので、よく「考えるな!感じろ!」と言われます。
実際、直感とかもあまり感じる意識がなく、感覚を感覚として感じるより、感じたことすら思考している感じ…。
しかも感情が後から来ることが多いので、
とか思っている始末です。
こんな記事を書きましたが、脳みその癖なのでなかなか治りません(涙)↓
「もっと敏感に感覚を感じてみたい」と思っていたら、たまたまAudibleで見つけたこちらの本?を聴いてみました↓
そうしたら、先日から考えていた「偶然か、必然か」という問いについての考えや、最近私が学んでいる仏教哲学の「唯識論」的な考えがつながってきたのでまとめてみます。
「偶然か必然か」については、こちらでも書きました↓
自分のコントロールできること以外はすべて偶然
自分のコントロールできるものって実は以外と少ないんです。
レストランのオーダーならほぼ必然的に頼んだものが来ますが、それでもたまに違うものが届いたりもしますよね。
他人の失敗はコントロールできません。
天気で人は一喜一憂するけれど、コントロールできないものの代表です。
人が自分のことをどう思うかだって、コントロールできません。
「なんでそう思われたんだろう?」とか考えても、実はどうしようもない事です。
理由を考えて、行動を変えることはできますが、それでその人が自分のことを思う気持ちが変わるかどうかのコントロールはできません。
中谷彰宏さんよると、人が理由を求めるのは、
だそうです。
のだそうです。
後から理由をつけることで必然性が見えてくるということがあります。
整合性を取ることで、一種の安心感を得るんですね。
本当はただの偶然なのに
- 私は雨女だから雨が降る
- 私が観ているとチームが負ける
など、そこに理由をつけると、いかにも必然で起こったかのように思ってしまうのです。
「偶然」と「必然」を唯識論で考える
最近、「唯識論」が面白いなぁと思って、「身近な哲学 オンライン勉強会」で学んでいます。
まだ学びたてで理解が浅いので、間違ったことを言っている可能性も感じながら読み進めていただけると嬉しいです。
唯識論では「私」も「私が見ている/感じているモノ」もすべて連続して瞬間的に表れる実体のないものとしてとらえます。
言葉によって「私」や「対象」のように、いかにも実体としてあるように感じてしまうけれど、本当はその時の「縁」によって関わっているだけの刹那的なものと考えます。
じゃぁ、その「縁」は偶然なのかと言うと、そういうことでもありません。
「縁」とは、
これがある時、それがある。これが生じる時、それが生じる。これが無い時、それが無い。これが滅する時、それが滅する。
仏教って何だろう?【6:釈迦の教え・縁起の法】
と説明します。
つまり、「これ」と「それ」の間に因果関係があるということです。
天気のように全くの偶然、神の領域のところもありますが、応援しているチームの勝敗のように、自分には関わらない「縁」で成り立っていることもあります。(←ここら辺の理解が怪しい。)
でも、自分に関して言えば、過去の自分の行動が、今の自分に影響しています。
今、私達が生きていると感じている世界は、過去の生きてきた記憶の世界のイメージでしかありません。
過去の記憶のイメージなので、それは今この瞬間には存在しません。
過去の出来事を思い返して「あれは必然だった」と思っていても、実は意味はありません。
過去の私の選択が、結果として今の私になっているのは事実です。
偶然が関与して、自分が望んだ結果にはなっていないこともあるでしょう。
でも、今、私達がやるべきなのは、流動的なその時の最善を見出すことだけなのです。
その瞬間、ベストな選択をして生きるということなのです。
大好きなCOTEN RADIOの「三蔵法師」の回で「一番わかりやすかった」とお勧めされていた本がこちら↓
自分の望む未来のために今の瞬間を生きる
結局のところ、私たちは目の前で起きるほとんどの事はコントロールすることが出来ません。
流動的な一瞬一瞬で何がコントロールできるのかと言うと、「自分で決めること」だけです。
そして、中谷彰宏さんは素早く決めることが「感覚」で決めるということだと言います。
思考をすると、自分の枠から出て決定することはできないけれど、自由に感覚で決めると高見に行けるそうです。
「偶然」は自分のコントロール外で起きる。
でも、自分の選択や行動はコントロールできる。
必然的に望む結果が得られることもあるし、他の偶然が作用して望む結果にならないこともあるでしょう。
つまり、出来事に対してそれが「偶然だったか」「必然だったか」と考えることには意味がなく、今の瞬間を自分の望む未来のために選択することが大切なんだなぁと思ったのでした。