何か行動を起こすとき、心の中でブーブー文句を言いながら、それを表には1mmも出さずにすることはありますか?
「菜根譚」という中国古典をミーニングノートコミュニティの読書会で読んだのですが、こんな1節がありました。
078 感謝求めない
人に何かをしてあげる場合に、それに対して感謝を求めたり、恩返しを期待したりしてはならない。ただ純粋な善意で行う施しであればそれは莫大な価値を生む。
中国古典の知恵に学ぶ 菜根譚 エッセンシャル版
しかし、人に何かしてあげることによって、自分の利益を図ったり、見返りを期待するのであれば、本来なら大いに価値のあることだとしても、一文の値打ちもなくなる。
そう、同じ行動を起こすにしても、人に良く思われたい気持ちでやる行動には一文の値打ちもなくなるそうです。
この記事では、人に良く思われたい気持ちを捨てることについて探っていきます。
人に良く思われたいだけの偽善
先日、ある仕事のオファーがあったときに、とっさに「忙しいし、面倒くさいからやりたくない」と思ったんです。
でも、1時間ほどで終わる仕事だし、条件的に私がやった方が良いと思い引き受けたのですが、クソ忙しいのにその仕事を引き受けた事を、心の中でブーブー文句を言いながらやっていたんです。
その時、断る事も出来たのに、なぜ引き受けたかと考えてみると、そこには人に良く思われたいという気持ちがある事に気付いたのです。
表向きは、さも率先して仕事を引き受けてくれる良い人を装いながら、心の中では文句を言っている…。
これは偽善であって、「良い事」をしていたとしても全然「良い事」になっていないことに気付いたのです。
心の中で文句を言いながら仕事をすることで、同じ時間を使ったとしても、私の仕事は菜根譚で言うところの「一文の値打ち」もない仕事になっていた事に気付いたのです。
いい態度で臨むことが大切
V.E.フランクルの「夜と霧」の中で、すごく心に残った一節があります。
強制収容所にいたことがあるものなら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人々について、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。
夜と霧 P110
つまり、自分の置かれた環境で、どのような態度をとるかは自分次第で、良い態度で臨むことに価値があると言う事です。
私のやった行為はどうでしょう?
その仕事を「やる」と決めたのは自分なのに、心の中で文句を言いながらやるのは「良い態度」で臨んでいるとは言えないし、そんなことには意味がない。
やると決めたからには、自分の意思でどう取り組むかを選び、本当の意味での「人からよく思われること」を実践することが大切だと思いました。
そこから得られた評価にこそ価値があり、心の中で文句を言いながら他人に良く思われようとする行動から得られた評価は偽物でしかありません。
[まとめ]人によく思われたい気持ちを捨てる
仕事を安請け合いする前に、どういう気持ちで受けているのかを一瞬考える時間が必要だと思いました。
「やりたがり」を卒業しないと、そういう虚栄心を満たすものに時間を奪われて、本当に大切な事を見失うような気がします。
小間使いとして認識されて、大切な事は任されなくなる可能性もあるかもしれません。
断る勇気や静観する胆力を持つことが必要。
そして、やると決めたからには、良い態度で臨むことが大切と気が付きました。